Masuk紬は最後のコマの下に、水凪と書いた。
絵を隠さない程度の小さな文字だった。スマートフォンの大きさに縮めると見分けにくいため、一度大きくしてから、また最初の大きさに戻した。右下にはすでに朝倉直人という名前が入っていた。2つの名前の間は離れていた。
月曜日の朝、食卓にはサインをもらえなかった本が2冊、そのまま置かれていた。紬はそれを横へどけ、原稿を読み直した。男が椅子を引くのに、女は座らない場面だった。直人は女に怒った表情をさせたがったが、紬は椅子の背をつかむ手だけを残した。
紬には、その手のほうが長く目に残った。座れと言われれば座り、待てと言われれば待ってきた人が、初めて自分の居場所を変えようとする場面だった。
署名まで入った画面を別に保存し、直人の仕事部屋へ行った。ドアは開いていて、彼は前日に寄せられた読者の反応を読んでいた。
「次の原稿を見て」
「送った?」
「まだ。最後に入れたものがあるから」
紬はタブレットを机に置いた。直人は途中を素早く送り、最後の画面で手を止めた。
「これ、何?」
彼が指さしたのは女の手ではなかった。
「私の名前」
「それはわかるけど、どうしてここに入れたの?」
「私も描いたから」
直人はタブレットを自分のほうへ引き寄せた。しばらく何も言わないので、紬は署名がよく見えるか確かめているのだと思った。画面を拡大してから、ようやく彼の口から短い息が漏れた。
「納品するときの表記はそろえないと。急にこれだけ違ったら困るだろ」
「次からも入れればいいじゃない」
「会社と話がついてるわけでもないし」
「じゃあ話そう」
紬はそう言う前から、手に力を込めていた。いざ口にすると、声は思っていたより小さかった。もう一度言うべきかと思ったが、直人はタブレットを持ったまま紬を見た。
「土曜日のことがあって、こんなこと言ってるの?」
「あのこともあるよ」
「まだ?」
まだ、という言葉に、返す言葉を失った。週末が過ぎただけだった。紬が食卓の本のほうを見ると、直人は椅子を後ろへ引いて立ち上がった。
「俺だって外で話してたら、間違えることもあるよ。あの場で全部説明できるわけじゃないだろ」
「間違えたなら、直せばいいじゃない」
「何か釈明文でも出せって?」
「そこまで言ってない。次は私が絵を描いてるって言って。私の名前も入れて」
彼は机の角に手をついた。紬をなだめようとするときのように、少し身をかがめる姿勢だったが、今は、近づいてきた顔を落ち着いて見られなかった。
「そうしたら、今までどうして入れてなかったのかって聞かれるよ。君がしたいのは名前を1つ入れることかもしれないけど、そこで終わる話じゃないんだ」
「今まで入れなかったからって、これからも入れられないわけじゃないでしょう」
「誰も入れちゃだめだなんて言ってない。順番があるってこと」
「いつ話すの?」
直人は答える代わりに、もう一度タブレットを操作した。紬は夫の指が自分の名前の上を通るのを見た。原稿を描くとき線と文字を分けておいたので、署名のあるレイヤーを非表示にするのに時間はかからなかった。
白い余白が戻った。
「とりあえずこれで送って。後で話し合おう」
「勝手に消さないで」
そこでようやく直人の手が止まった。
「消したんじゃなくて、見えなくしただけだよ。ファイルには残ってるだろ」
「載せるために書いたのに」
直人は少し黙り、それからタブレットを机に置いた。画面から手を離すと、もう絵を見なかった。
「今日、どうしてもこの話をしなきゃだめ? イベントが終わって、少し息をつけると思ったのに」
紬はタブレットを手に取った。ドアのほうへ動いたので、直人は言い争いが終わったと思ったのか、昼に一緒に出かけようと言った。近くに新しい店ができたという。
「今日は出かけない」
「どうして。いつも家にばかりいないで」
「整理したいものがあるの」
紬が敷居をまたぐまで、直人はいつ名前を入れるか言わなかった。
小さな部屋に戻ってファイルを開いた。署名のあるレイヤーは非表示になり、直人が保存した時刻が記録されていた。紬はそれを元に戻して上書きしなかった。朝残しておいたコピーを隣に表示すると、同じ絵の下に、片方だけ水凪の名前があった。
どちらも捨てず、日付をつけたフォルダーに入れた。最後のコマだけを残した絵ではなく、消して描き直した線や移動した吹き出しも一緒に入っている作業ファイルだった。
直人からメッセージが来た。
[最後の手、もう少し開いた形にできない? 怒ってるみたいに見える]
紬は女の手を拡大した。つかんでいた椅子を離すには、指を開かなければならない。でも、まだ離してはいなかった。次の場面で女が何をするかを考えるうちに、直人への返事が先にまとまった。
[この場面はそのままにするね。次で手を離すから]
送ってからもスマートフォンを伏せなかった。直人の返事が来るか見ていた。ずいぶんたってから、わかったというメッセージが表示された。
紬はそこでようやく原稿を送った。見える作者名は夫のものだけだった。
昼頃キッチンへ出ると、直人が食卓に座り、本を包むビニールを外していた。美佐子が送ってくれた名前をスマートフォンで確認し、表紙の内側にサインをする。ペンを替えて短い挨拶まで添えた。
「これ、お義母さんに持っていけばいいんだよね?」
「うん」
「宛名はこれで合ってる?」
「うん。お母さんが送ってくれたの」
紬は本を受け取り、袋に入れた。直人はキャップをしたペンを転がし、自分のほうへ引き寄せた。
「さっきは俺も、ちょっと言い方がきつかったな」
紬が袋を折る手を止めると、彼は続けた。
「デリケートな時期に急に何か変えようって言うからさ。君が絵を描くのがうまいことは、俺だってわかってるし」
「知ってるなら、話してよ」
直人は少し紬を見てから笑った。
「だから、俺は知ってるって」
紬は残った袋の端を折った。本2冊の厚みのせいで、一度では折れなかった。直人は食卓の上を片づける間に、新しく届いた予定表を開いた。
「今度の金曜日、時間ある?」
「どうして?」
「彩香が復帰の準備をしてるの、知ってるだろ?」
紬は袋を置いた。
篠原彩香。
直人より先に名前を聞いた人だった。大学の頃、講評会に来ていた先輩で、色の使い方がうまいので、後輩たちはよく彩香の作業画面の周りに集まっていた。紬もその後ろに立ち、何度も見ていた。
直人が彼女を長いこと好きだったと知ったのは後になってからだった。夫が話したわけではない。結婚前の集まりで誰かが2人をからかい、紬の顔を見て話題を変えてから、その集まりに顔を出すたびに自分の知らない話がどこまであるのか考えるようになった。
だからといって、彩香と露骨に気まずくなったことはない。折々に挨拶を交わし、彩香はときどき直人の作品がいいと伝えてきた。紬に絵の話を直接尋ねることはなかった。
「新作が出るって聞いたよ」
「来週、関係者を集めて簡単に見せるらしい。その前に資料を少し整理しなきゃいけないみたいで」
「それを私が?」
「大したことじゃないよ。昔の作業写真を探すのと、紹介資料に入れる画像を選ぶくらい」
紬は直人が差し出したスマートフォンを受け取らなかった。
「向こうの会社でやればいいじゃない」
「古いものは俺たちのほうがよく知ってるだろ。大学の頃の資料もあるらしいし、君はきちんと整理してるから」
「私の資料が欲しいって?」
「そうじゃなくて。君も集まりにいたから、手伝えるかって」
直人は彩香の言葉を代わりに伝えながら、質問が終わる前に次の予定を見ていた。紬は袋を食卓の端へ押した。
「どんな資料が必要か、本人から送ってもらって」
「俺が送るよ」
「違う、彩香さんから。私が持っているかも確認しないといけないから」
直人がスマートフォンから目を上げた。返事を待っていた紬は、彼が不快そうな顔をする前に一言つけ加えた。
「今、引き受けるって約束しないでね」
直人があきれたように笑った。紬は袋の端を押して折りかけ、手を離した。また笑って済ませれば、頼まれた人ではなく仕事を引き受けた人になってしまいそうだった。何の資料なのか、まず知らなければならないともう一度言った。
結局、彼は彩香にメッセージを送った。返事はすぐに来た。
[紬は資料の整理が本当に丁寧よね。急ぎじゃないから、私から別に話すね。ありがとう]
直人はその部分を見せて言った。
「ほら。急ぎじゃないって」
紬はその下についた小さなハートを見た。彩香とのトーク画面には、資料の話だけでなく、先週の近況を尋ねるやり取りも残っていた。夕食を食べたかと聞くメッセージがちらりと見えたが、続きを読もうと手を伸ばしはしなかった。
「資料が来たら見て、返事するね」
「うん。頼むよ」
直人が出かけた後、紬は母に本にサインをもらったと知らせた。美佐子は礼を言い、忙しいのにありがとうと直人に伝えてほしいと頼んだ。いつ届けられるかは聞かれなかったので、紬は水曜日に寄ると自分から書いた。
その日の午後、彩香からは連絡がなかった。
紬は自分のフォルダーに集めた絵を読んだ。蛇口の前で手を止めた女と、窓枠にとまる鳥が画面にいる。鳥は飛んでいったが、女がいつまた洗い物を始めるかはまだ描いていない。少し止まった後の話を足すか、ここで終えるか迷った。
誰かが待っている原稿でもないのだから、もう1日置いてもよかった。紬は結末を書く代わりに、ファイルの横に小さな疑問符をつけた。
夕食の準備をしようと立ち上がったとき、直人が資料を送ってきた。彩香の復帰作の紹介資料だった。表紙には『灯りの残る家』というタイトルと、篠原彩香の名前がはっきりと記されていた。
紬はタイトルより先に色に目を引かれた。濃い紫の路地に、オレンジ色の明かりが細く広がっている。暗がりを黒で埋めず、いくつもの色を重ねる描き方は、昔の彩香の絵でも見たことがあった。
資料には復帰の理由を尋ねるインタビューと、短い試し読みがついていた。次のページをめくると、明かりのついたクリーニング店の前に女が立っていた。女は右側のドアから入ろうとして向きを変え、画面の下のほうには空の椅子が1脚見える。
紬は最初に戻り、もう一度めくった。
店の前を通る自転車、クリーニング店の奥の壁、女が背を向けた方向。色が鮮やかで、最初はわからなかった。椅子の背を隠して立つ女の腕が目に入ったとき、食卓へ向かいかけていた足が止まった。
紬は画面を拡大した。前髪も服も違い、店の窓も大きくなっていた。けれど、女が身をよけた後も椅子は半分隠れていた。
あの場所を隠すために、どれほど時間をかけて人物の位置を変え、描き直したかを思い出した。
紬は資料棚の一番上に載せた箱を下ろした。箱の側面には、まだ結婚前の家で使っていた住所が貼ってあった。
大学の頃に描いたクリーニング店が、その中にあった。
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して







